山岡洋秋ストーリー
貧しかった・・・でも!温かかった幼少時代・両親の教え
父は左官職人、母は体が弱く、兄と私は帝王切開でこの世に出て来ました。
どれぐらい母の体が弱いかというと・・・
私の聞いた話では、母が手術を受けた回数は確か9回・・・そんな体で私を産んでくれた事に感謝です。
父は職人気質で、私は幼い頃から徹底的に『人に迷惑をかけるな』と教えられました。
母は12人兄弟姉妹の4番目に生まれ、小学校を出る頃には奉公に出され、奉公先の子供を背負いながら中学校に通っていたそうです。まるで『おしん』を地で 行くような少女時代を過ごし、その後は旅館に住み込みで働きながら接客や料理の腕を上げていったようです。母の口癖は「一生懸命やっていれば、必ず誰かが 見ていてくれる」です。
父と母は高等教育を受けた訳でもなく、人事の勉強をした訳でもありませんが、我が家には多くの『人』が集います。私が小学生の頃、家には父のお弟子さん3 人が住み込みで働いていました。おかげで私は、幼少の頃から家に居ながら“職場”を見学することができました。父を訪ねて毎日のように取引先の方々が家に 来ていました。あとで知ったことですが、父と母の間には『人』を呼ぶための『連携プレー』があったようです。“家”は、専業主婦の母にとっても“職場” だったのです。
両親に共通しているのは、『人』の面倒見が“圧倒的に良い”ということだと思います。今でも両親のところには、ご近所の方々が慕ってきてくれます。また、 両親の具合が悪くなるとご近所の方々が病院に連れて行ってくれたり、食事のお世話をしてくれます。両親ともに、『聴く』『共感する』という部分で『人』を 惹き付けるのでしょう。今は現役を引退している両親ですが、周りの方々に助けられて幸せに暮らしております。ご近所の方々には、本当に感謝するばかりです。
早く社会に出たかった少年時代
小学生の頃は将棋に熱中し、将棋漫画『5五の龍』の影響で
「中学を卒業したら東京の奨励会に行ってプロ棋士になる!」
と親に宣言しがんばっていました。
ところが、地元で開催された『将棋まつり』で女流プロ棋士と2枚落ちで対戦し
全く歯が立たず・・・自分の実力不足を痛感し、プロ棋士への道を断念しました。
最終的には『アマチュア2段』までしか上がれませんでしたので、今思えば実力不足も甚だしいのですが、当時は真剣でした。
また、小学校の卒業文集には、将来の夢は「大きい会社の社長になりたい!」と書いていましたので当時から独立心旺盛だったんです(笑)
中学2年生から高校3年生までの5年間、新聞配達の仕事をしました。家が貧乏だったこともありますが、それ以上に『早く社会に出たい』という気持ちが強かったのです。新聞配達は、毎朝4時半の起床、寝坊したら学校に遅れるという『プレッシャー』との戦いでした。台風の強風で自転車が倒れて新聞が飛ばされたり、凍結路面で自転車ごとコケたり・・・当時の新聞は現在のようにビニール袋で包装されていませんでしたので、雨対策は大変でした(泣)この新聞配達の経験で『仕事への責任感』が徹底的に養われました。
進学に心が傾くも・・・就職へ
そんな私ですが、なぜか高校は進学校に行きました。
第1希望は就職に有利だろうという理由で秋田商業高校だったのですが、
担任の先生から「進学校に行っても就職できるし、進学という選択肢も広がるから」
という勧めがあったためです。
高校に入学して驚いたことは、周りの同級生がみんな進学希望者ばかりということでした。進学校だから進学希望者が集まるのは当然ですが、同じクラス(50人)の中で入学当初から就職を希望していたのは俺だけ??「ちょっと場違いのところに来てしまったな〜」というのが、高校生活の第一印象でした。
成績については、最初は真ん中くらいでした。ただ、高校1年生のときの英語教師の何気ない一言「6尺坊主は頭悪いからな〜」に、“カッチ〜ン”と来ましたね。その時の私の身長は、既に180cmを超えていましたので、6尺坊主そのものだったのです。しかし、その一言のおかげで(?)成績が上がり、周りの影響も受け、大学進学へ心が傾きました。
高校2年生の秋頃までは進学気分になっていました。ただ、両親と相談した結果、進学するなら国立、しかも自宅から唯一通える大学である『秋田大学なら進学OK』の許可が。しかし、秋田大学には私が行きたい学部がなかったので、父に相談すると「東京大学ならどんなに借金してでも行かせてやる!」と冗談まじりに言ってくれましたが・・・私はもともと就職を希望していましたので、このとき初心に戻りました。不思議なことに、就職すると決めてから成績が上がりました。
就職については、“安定”と“地元採用”を理由に東北電力株式会社に入社しました。
ようやくあこがれていた就職という名の『独立』が実現したのです!
仕事の基本と人間関係を構築した電力会社時代
初めての配属先は新潟営業所の料金課という部署でした。
そこでは、メーターの検針、料金計算など電気料金に関する全般的な業務を行いました。
もともと数字が好きだったので、計算結果が一致する瞬間は快感でした。
一方、生活の拠点は、四畳半一間の独身寮からのスタートでした。バス・トイレ・洗濯機は共同でしたが、初めての“自分の城”に満足でした。当時の会社の規則では、安全や金銭的な理由により入社以後2年間のマイカー購入が禁止されていましたので、どこに行くにも寮の先輩が頼りでした。少し不自由を感じつつも、会社で聞けないことを寮で先輩に聞くことができるなど、そのメリットは余り有るほどでした。また、趣味の面では、ランニングを始め、そのおもしろさにはまり、いつかはホノルルマラソンに参加するぞ!と思いながら走っていた時代でした。
その後、仕事面では、一般家庭及び工場施設等の電気使用申込手続き業務を経て、人事労務部門へ異動することになりました。それまでは『地域のお客さま対応』をしていたのですが、人事労務部門では『従業員への対応』をすることになるのですから、 最初は戸惑いました。 ただ幸いなことに、私が所属していた部署は、安全衛生・健康管理の部署も一緒になっていましたので、災害防止や健康診断、衛生指導に関することまで幅広く関わることができたことは大変貴重な経験になりました。この頃、初めて『労働基準法』を意識的に勉強して『管理職研修』や『新入社員研修等』を企画・実行したり『人事評価資料の作成』等を行ったりしながら、職場の『人』に関する問題を考えていました。また、250人程度の事業所だったのですが、就業規則の解釈に関する問い合わせや、労働組合との調整などについて毎日のように対応していました。この頃から「社内規程の取扱いだけではなく、もっと幅広くアドバイスできたらいいな〜」と思っていました。「専門性を身に付けたい」「社外に通用する能力(エンプロイアビリティ)を身につけたい」と考え調べて『社会保険労務士』という専門の資格の存在を知りました。
社会保険労務士を目指した受験生時代
平成14年に佐渡島へ異動になったのをきっかけに社会保険労務士を目指し始めました。当時の業務内容は『総務・人事・労務』が主でしたので、「社労士になる!」という目標を実現するために具体的な行動を起こしました。
受験勉強の手段としては、強制的に勉強するような環境に身を置こうと考え、わざわざ『往復8時間!』もかかる新潟市のクレアール新潟校へ通学することにしました。離島ということを考えれば通信教育という選択もあったのですが、環境を変えモチベーションアップしたかったのであえて『通学』を選択したのです。
毎週末は朝4時半頃に起床し、始発の船に乗り、クレアール新潟校へ通うことが習慣になりました。往復の乗船時間を復習に充てようという狙いでしたが・・・日本海の荒波に負けました(泣)船酔いしやすい私は、乗船中の往復時間のほとんどを『睡眠学習』で過ごしました(笑)
ちなみに、佐渡付近の日本海の荒波がどれほどだったのかというと、佐渡島での日常会話は、必ずと言っていいほど波の高さの話題になるほどです。単身赴任者が多いことから、週末が近づくと帰省できるかどうかを心配して、さらに波の話題に集中します。「ジェットフォイルは2.5mの波まで大丈夫」「フェリーは6mまでOK」など、知らず知らずのうちに佐渡汽船の欠航の目安が、荒波かそうでないかの判断基準になります。
第1回目の受験は、勉強の絶対量が足りず、合格発表を待つまでもなく撃沈しました。
2回目の挑戦の時は、佐渡から転勤し、新潟市でスタートすることになり、クレアール新潟校への移動時間は大幅に短縮されました。しかし、今度は担当業務が総務から営業へ変わったため、社労士受験に対する『モチベーション維持』が課題となりました。
受験生へ参考のために合格に導いたそのころの勉強の方法を少し披露します。
勉強方法等における1回目との違いは、
1.ビデオ視聴は1日1本とし、可能な限り早く復習する。
2.できるだけ飲酒を控え、平日22:00~24:00を、必ず勉強する『ゴールデンタイム』とする。
3.サブノートを作成する。
4.過去問題集を背表紙で切断し、携帯する。
5.単語帳形式の過去問題集を購入し、昼休み等に活用する。
等が挙げられます。
受験勉強のテーマは、『書くこと』と『細切れ時間の有効活用』でした。サブノートの作成については賛否両論あると思いますが、私は、書くことによって頭の中が整理され理解が深まっていくことを実感しました。細切れ時間の有効活用については、出張時の移動時間や昼休み等の時間を有効に活用するために、できるだけ薄くて軽い教材が有効でした。毎日少しずつでも勉強を継続していくという意識で基礎固めができたと思います。
合格発表の日は、朝からソワソワしていました。その当時は合格者の氏名は官報に掲載されていたので、官報に自分の名前を見つけたときは、うれしさのあまり体が震えました!あのときの感動は今でも忘れません。
電力会社を辞めるまでの葛藤と独立開業に向けられた情熱
人事労務業務を6年間経験した後、会社組織の見直しが行われ、私は大口電力契約のコンサルティング営業を行う部署へ異動になりました。人事労務の仕事を続けたいと思っていましたので、「またリセットか・・・」。このときの異動は、正直な気持ち、とても複雑な思いでしたが、新たな部署でまた新たな経験ができると思い、気持ちを切り替えて前向きに考えることにしました。
新しい部署では定期的に担当顧客を訪問し、お客さまの使用形態に合わせて最適な契約メニューを提案したり、契約内容が使用実績に比べて過大である場合は、契約を下げるような提案もしました。契約を下げると基本料金収入が減少することになるのですが、電力会社は、お客さまの契約の大きさに合わせて供給設備を作る必要があり、設備の有効利用や省エネという側面も踏まえてお客さま対応をしていました。
私が社労士試験に合格したのは、丁度この時期でした。営業の仕事は、直接お客さまとお話をし、その業務の面白さもわかってきたところだったのですが、もともと『人事労務のプロフェッショナルになりたい』と社労士を目指していたのが、人事異動により、営業に配属され、その職場ではせっかく取得した社労士資格をほとんど活かすことができず、悶々としていました。このとき感じたことは、「サラリーマンの場合、会社の方向性と社員の希望は必ずしも一致しない」「やりたいことをやるのであれば、会社に頼らず、自分で道を切り開くしかない」ということです。この頃は、やりたい仕事内容と実際の仕事内容とのギャップについて悩み続け、毎日のようにビジネス書や独立に関する本を読みあさっていました。
こんな感じで退職するまでかなり悩みました。20年間お世話になった会社を辞めていいのか?独立して成功できるのか・・・
プライベート面では、離婚を経験し「離婚をプラスに考え、やりたいことをやろう!」と思う反面、収入や高齢の親への仕送りの問題など、考えれば考えるほどマイナス面ばかりが頭に浮かび、ほとんど思考停止状態でした。
転機は、平成18年に社労士開業塾を受講したことでした。全国各地から集まる受講生と時間・情報を共有するうちに「やりたいことを仕事にしよう」「人事労務関係の仕事をしよう」という気持ちが強くなっていきました。そして・・・最後の決め手は『占い』でした。考えに考え抜いたとき、ある占いによると今期が『12年に一度の幸運期』会社を辞めて独立するなら『今しかない!』と決心しました。
社労士事務所での経験、そして独立開業へ
電力会社を退職して新潟県内で開業する予定でしたが、縁あって、社労士開業塾を主催している社会保険労務士事務所(東京都)で働くことになりました。人生で初めての転職&初めての東京生活&初めての通勤ラッシュ&初めての社労士事務所勤務・・・何もかもが『初めて尽くし』でした。業務として経験した『書籍の執筆協力、編集、校正の仕事、締め切りに追われる』ってこういうことか・・・や『各種書類作成・手続き』については、時間をかければ素人でもできるけれど、そもそも書類作成の必要性やタイミングに気付かずに損をしているケースが多いという発見など、改めて社労士の必要性を強く感じました。
平成19年4月から、受験時代にお世話になった『クレアール社労士アカデミー』で、週末のみ、社労士受験生向けの講座の講師を務めました。そのため月曜日から金曜日までは社労士事務所勤務、土日は講義準備及び約5時間立ちっぱなし講義、の繰り返しでした。時間的&体力的にはハードでしたが、講師をすることで、人前で話す訓練になり、また、法改正への対応、知識レベルの維持・向上など、その効果は絶大です。
そして平成20年、いよいよ独立開業へ!事務所名はなかなか決まりませんでしたが、私の思いを込めた『人財』をキーワードに『ヒューマントレジャーサポートオフィス』に決定しました。ここからが、本当のスタートです。
『“人材”から“人財”へ』をミッションに『職場のコミュニケーションを重視した社内研修』『就業規則の“潤滑油化”』により、経営者と従業員の信頼関係を強化&企業の生産性向上に寄与するため、日々熱く生きている私、『社会保険労務士・山岡洋秋』です!
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